死刑制度

死刑を支持するか、と問われれば、いったい誰が人の死を望んだりするだろう。

しかし、もし自分の愛する人が、理不尽な理由で残虐な方法で殺された場合、犯人の死を望むか、と言われれば望むかもしれない。
遺族が「極刑を望みます」と言い、死刑判決が出た時に、遺影にそう報告できてよかったと、涙を流す気持ちを想像してみる。

唯一、死刑執行を待ってほしい、と思うとすれば、それは1%でも冤罪の可能性がある時だろう。
しかし「冤罪を無くす」ことと「死刑制度の是非」を同じ土俵で考えるべきなのか、分からない。

良い悪いは別にして、「生き恥をさらす」という言葉があり、時に生きることより死の方が楽だ、美しい、とする考えがある。
病気や不慮の事故で「苦しまずに死ねた」ことは遺族にとって慰めだ。
傷病者が覚悟の上で迎える死ならば、遺族はまだしも救われるだろう。
遺体の損傷が少なく丁寧に葬儀を執り行えることも遺族にとっては大切なことだ。

死そのものは悪でも懲罰でもない。重要なのはその迎え方と迎えた後だ。
日本人が臓器移植にいまだ強い抵抗があるのは、死後の尊厳の問題もある。

死の迎え方が重要であり、すなわち懲罰の実体であるのなら、死刑囚に「最後の晩餐」を与えるのは間違っている。
死刑囚が、被害者に最後の晩餐を与えたのならともかく。
死刑は「苦しみが継続しない」刑罰である。死の迎え方を懲罰としなければ意味がない。

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