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件(くだん)

長崎県長崎市出島 江戸時代末期、この近くに住んでいたある女性が怪異を産み落とす。 頭に二本のツノがあり、体は毛むくじゃらで、その顔は人間というよりは牛に近かった。 それは生まれて3日で死んだが、死ぬ前に言葉を話した。 それは「今より百年ののち、この地を灼熱の災厄が襲い、皆悉く死に至る」という予言じみたものであったという。

曲の種類

狂想曲→カプリチオ 協奏曲→コンチェルト 狂詩曲→ラプソディ 幻想曲→ファンタジア 五重奏曲→クインテット 交響曲→シンフォニー 四重奏曲→カルテット 奏鳴曲→ソナタ 鎮魂歌→レクイエム 追奏曲→カノン 夢想曲→トロイメライ 夜想曲→ノクターン 輪舞曲→ロンド 笑曲→スケルツォ

現在過去未来

 ~過去について~ 「間違っていたかもしれない」とは決して思わない事  それは  心挫かせ  光を奪い  歩みを止める  史上最悪の毒 ~未来について~ 足の向く先に  「かくあるべし」と信じる自分自身を  理想を強く想い描く事 たとえどんなに望もうとも  君は  死体か「理想の自分」以外にはなれない ~現在について~ 今  この瞬間に  この場所で  学びとれるすべてを学ぶ事 学ぶ「べき」事物などありはしない  予言者ならぬ我々に選択の余地はない

魔法使いと魔術師

人間は魔術師になれるが、魔法使いにはなれない。その逆も真。 魔法使いと魔術師は同じような力をふるうが、本質的な違いがある。 魔術師は魔法を使っているのではなく、魔法を使える存在を魔方陣や呪文や特殊な動作によって使役し、彼らの能力を現世に現出させる技術を学んだ人間である。 対して魔法使いは、「魔法使い」という種族であり、人間ではない。魔力、つまり視力や聴力のように感覚として「世界の本質を見る力」をもって生まれ、それ故に世界の姿を書き換えることが出来る。動植物を含むあらゆる種族に生まれい出る可能性があるが、その多くは生まれてすぐに自分の力を制御できず死亡する。運よく生き残った存在が精霊や妖怪のような存在となる。人間の魔法使いが比較的数が多いのには、先人による保護と教育のたまものであると言える。ハリーポッターを参照。 魔法使いは魔術師と違い、本能的に魔法を使う。それゆえ、「なぜこの魔法はこの結果を生むのか」は説明できない。過程をすっ飛ばして結果だけを生む、いわば解答を丸写ししている状態である。 対して魔術師は綿密な計算と正確な術式を用いて魔術を発動させるため、極めて理論的な存在である。それゆえ、たいていの魔術師は一人前になるまでに長い時間を要し、多くの場合老人の姿で描かれる。

人間の定義についての考察

  ・記憶情報が人間だと考えた場合、更新されない記憶情報は?記述や書物は? ・死者の定義は?    生者の定義は?    死とは、脳死の時点?心臓死の時点?    脳死の時点だとすると、脳死判定する医師は生死を司る現代の神官か?    生死判定が、病院という密室の中で医師のみが実行を許される「秘密の儀式」となってしまわないか?     誰の目からも明らかな生死判定とは? ・「他人の臓器を移植してまで生き延びたい」とは、一体どういう意味なのか?    対象者にそうまでする価値があると、だれが決められるだろう? ・臓器移植がOKならば、脳死した人体をどのように利用しようと構わないのではないか? ・人工呼吸器を付けておけば、寿命まで持つ血液生産工場として機能しないか?    ・新鮮な臓器の貯蔵庫となってしまわないか? ・臓器移植がOKで、血液の生産機械として扱うのはNGな理由は?    ・脳死した人物の意志が確認できていれば、人体実験用の献体とするのはOKか?    ・脳死した女性から取り出した卵子はいったいどういう存在か? ・不健康な5人と健康な1人がいた場合、健康な1人を殺して5人を健康にするのは問題ないのか? ・人体は「部品」の集合体か? ・物事を難しく考えすぎなのだと思う。 ・だが、僕にわかるように説明できないということは、君も理解していないということではないか?

ルサンチマンと司牧者

  「高貴な者」は能動的な人間たちであり、行動することに幸福をみいだす者たちである。 これにたいして「無力な者、抑圧された者」は労働を強いられているために、休息や平和のうちに幸福をみいだすにすぎない。 彼らは受動的な人間である。 そして高貴な者たちを恨み、自分たちの境遇を恨むことしかできない。 怨恨(ルサンチマン)の感情で満たされた奴隷たちは、「毒を含み、敵意をもった感情で化膿している」のである。 こうした者たちは、境遇を変えるために行動することができない無力な者たちであるために、心の中で価値を逆転させるしかないのである。 そこで心の中でひそかにこう考える。 われわれは無力である、しかし無力であるということは行動しないことであり、他人を強制して働かせたりすることも、他人に暴力を行使することもないということである。 ということは、われわれは善人だということだ。 「善人とは暴力を加えない者であり、復讐は神にゆだねる者であり、われわれのように隠れている者であり、……われわれのように辛抱強い者、謙虚な者、公正な者のことである」。 こうして奴は善なる者となり、主は悪なる者となったのである。 司牧者の役割 しかしこれはただ心の中だけのことだった。 たんなる恨みの感情からの自己憐憫であり、自己欺瞞にすぎない。 しかしここでこの感情を理解し、これに働きかける人物が登場する。 これは奴のように受動的な人間ではなく、他者に働きかける能動的な人間であるから、もとは主の身分のものだったに違いないとニーチェは想定する。 この人物が、奴の受動的な怨恨のルサンチマンの感情に働きかけ、これを正当化することに成功するのである。 これがユダヤ教とキリスト教の司牧者である。 司牧者はまず自己に能動的に働きかける。 「ある種の食餌療法(肉食を禁止すること)、断食、性的な禁欲、〈荒野への〉逃避」などの禁欲的な理想を実行するのである。 この禁欲的な理想には、修道院における労働が含まれていたことは当然のことである。 やがて司牧者はこの理想にふさわしい人々をみいだす。 それが労働と禁欲を強いられている奴隷たちである。 司牧者は奴隷たちに話しかける。 「惨めな者たちだけが善き者である。貧しき者、無力な者、卑しき者だけが善き者である。苦悩する者、とぼしき者、病める者、醜き者だけが敬虔なる者であり、神を信じる者...

マジックジョンソンの言葉

  もし、自分でなにかを成し遂げたかったら 出来なかった時に他人のせいにしないで 自分のせいにしなさい 多くの人が、君に「無理だよ」と言うだろう 彼らは、君に成功してほしくないんだ なぜなら、彼らは成功出来なかったから 途中で諦めてしまったから だから、君にもその夢を諦めてほしいんだ 不幸なひとは、不幸な人を友達にしたいんだ 決して諦めては駄目だ 自分のまわりをエネルギーであふれ しっかりした考え方を、持っている人でかためなさい 自分のまわりを野心であふれ プラス思考の人でかためなさい 近くに誰か憧れる人がいたら その人に、アドバイスを求めなさい 君の人生を、考えることが出来るのは君だけだ 君の夢がなんであれ、それに向かっていくんだ 何故なら、君は幸せになる為に生まれてきたんだ