ルサンチマンと司牧者

 「高貴な者」は能動的な人間たちであり、行動することに幸福をみいだす者たちである。

これにたいして「無力な者、抑圧された者」は労働を強いられているために、休息や平和のうちに幸福をみいだすにすぎない。
彼らは受動的な人間である。
そして高貴な者たちを恨み、自分たちの境遇を恨むことしかできない。
怨恨(ルサンチマン)の感情で満たされた奴隷たちは、「毒を含み、敵意をもった感情で化膿している」のである。

こうした者たちは、境遇を変えるために行動することができない無力な者たちであるために、心の中で価値を逆転させるしかないのである。
そこで心の中でひそかにこう考える。
われわれは無力である、しかし無力であるということは行動しないことであり、他人を強制して働かせたりすることも、他人に暴力を行使することもないということである。
ということは、われわれは善人だということだ。
「善人とは暴力を加えない者であり、復讐は神にゆだねる者であり、われわれのように隠れている者であり、……われわれのように辛抱強い者、謙虚な者、公正な者のことである」。
こうして奴は善なる者となり、主は悪なる者となったのである。

司牧者の役割
しかしこれはただ心の中だけのことだった。
たんなる恨みの感情からの自己憐憫であり、自己欺瞞にすぎない。
しかしここでこの感情を理解し、これに働きかける人物が登場する。
これは奴のように受動的な人間ではなく、他者に働きかける能動的な人間であるから、もとは主の身分のものだったに違いないとニーチェは想定する。
この人物が、奴の受動的な怨恨のルサンチマンの感情に働きかけ、これを正当化することに成功するのである。
これがユダヤ教とキリスト教の司牧者である。

司牧者はまず自己に能動的に働きかける。
「ある種の食餌療法(肉食を禁止すること)、断食、性的な禁欲、〈荒野への〉逃避」などの禁欲的な理想を実行するのである。
この禁欲的な理想には、修道院における労働が含まれていたことは当然のことである。
やがて司牧者はこの理想にふさわしい人々をみいだす。
それが労働と禁欲を強いられている奴隷たちである。
司牧者は奴隷たちに話しかける。
「惨めな者たちだけが善き者である。貧しき者、無力な者、卑しき者だけが善き者である。苦悩する者、とぼしき者、病める者、醜き者だけが敬虔なる者であり、神を信じる者である。浄福は彼らだけに与えられる」。

こうして奴たちのルサンチマンから、新たな道徳が作りだされた。
善なる者は、惨めな者、強いられて労働する者、苦悩する者であり、悪なる者は、「高貴な者、力を振るう者」であり、「汝らは永久に救われぬ者、呪われた者、墜ちた者であろう」。
このような道徳観のもとでは、禁欲的な意味をもつ労働は神聖なものとなる。
この労働のイデオロギーのもとで、「有用で、勤勉で、さまざまな分野で役に立つ器用な家畜的な人間が作りだされる」のである。

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